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シンボ誕生の物語

 はじめに なぜ、私が今の仕事をするようになったのか?

 野球帽をかぶった少年たちが元気いっぱいに列をなして走って行く。

 しばらくすると、その列から脱落し、ゆっくりと歩き始める少年がいた。

 元気よくふるはずだった右手をわき腹におさえ、ハア、ハア、と苦しげな息を吐き出している。

「あ〜、わき腹が痛い……。なんで俺ばっかり痛くなるんだよ」

 つぶやきながら、先へ走っているみんなに追いつくため、また走り出す。

 この少年は、小学生の私です。小さいころから体が強い方ではなく、全力で走ろうとすると、わき腹が痛くなってしまうのです。

 これは、サイドスティッチとも言われる症状で、体幹の筋力や血の巡り、内臓をつないでいる靭帯が引っ張られる痛みと思われています。現在でも原因はわかっていません。

 とてもしんどかった……、今でも鮮明に覚えています。小学生の記憶など普通なら曖昧になるはずのに、これだけはハッキリと覚えているんですよね。

 この物語は、そんな体の弱かった私がそれを克服し、さらに治療家となって皆様にお引きたていただくまでのお話。
 
 少し長くなってしまいますが、お付き合いのほど、よろしくお願いします。

 第1章 誕生〜社会人になるまで。

 昭和48年4月21日に新津市中村の新保家の長男として生まれました。私の名前は、親につけてもらったものではありません。親戚が集まっている時に決まりました。
 
 私の名前が決まらないという話題になり、誰かが「直人がいいんじゃねえか」という声に周りが賛同、満場一致で「直人」に決まってしまいました。今でも「直人がいいんじゃねえか」と言い出した人がわからないそうです。謎です……。

 それから、すくすくと順調に育てば良かったのですが、すぐに熱を出したり、不調になったりしてたそうです。そんな体の弱かった私も小学生になり、地元の少年野球部に入りました。

 練習中、周りの子たちは平気な顔をして走っているのに、なんで自分はわき腹が痛くなるんだろう……。冒頭にあるように思い切り運動すると、わき腹が痛くなることに悩まされました。
 
 その痛みがすごく嫌で、小学2年のマラソン大会の行事も仮病を使って休むほどでした。このときは、お腹の調子が悪いからと母親に言って休みました。

 母親は愛情が深く、私に対して心配性な節がありました。私は、生まれた時にへその緒が首に巻き付いており、泣きもせず顔が青くなって生まれました。取り上げた医師にダメかもしれないと言われたそうです。

 その後、奇跡の回復をみせ、無事に生き残ることができました。その当時の病院スタッフに感謝を申し上げたいです。その出来事をことあるごとに、母は語ってくれました。
 
 そんな母親は私が心の拠り所だったのか、他人の前でも私を誉めることがあるので、すごく恥ずかしい思いをしていました。

 そんな母親にあまり心配をかけたくないと小学生ながらも思っていたので、走ったときのわき腹が痛くなることをずっと母親に言えなかったのです。

 当時、ブルースリーやジャッキーチェンなどのカンフー映画とか、マンガのキン肉マンや北斗の拳にものすごくハマっていたのは、全力で動けたり痛みを耐え戦う男に憧れがあったからかもしれません。

 中学校になると、部活動は運動部に所属しないといけなかったので、野球部に所属しました。
 
 全力で走るとわき腹が痛くなるのは相変わらず、わき腹に手を添えるのが恥ずかしいので、ペースを少し落として走っていました。
 
 キャプテン翼を見て育った私はサッカーに興味はあるものの、走り回るサッカーなんて絶対無理です!

 そして、当時の野球部のメンバーがすごく優秀なんですよ。なんと!県大会で優勝するほど、優秀〜!私なんて才能ないので、もう必死について行きました。

 その影響もあり、高校は推薦で入学しました。さすがに野球はやらないとマズいかなという空気を感じたので、しかたなく、また野球部へ所属することにしました。

 高校になると、硬式と言ってボールの素材がゴムではなく皮を張ったボールになります。身体に負担がかかるのか、投げ方が悪いのかは分かりませんが、練習した後は肩や肘が痛くなっていました。

 このときは医学知識もないので、なぜ痛かったのかわかっていません。後ほど、この原因が明らかになります。

 それに加えて、野球部の監督が元陸上部のマラソン好きで長距離を走る練習メニューもあり、身体中が悲鳴をあげ、全力でプレーできる状態ではありませんでした。

 体育の成績は、小中高とほぼ標準で運動音痴ではなかったのすが、全力で体を動かすことに抵抗感がありました。運動はできるけど、体が痛くなるから出来るだけ運動はしたくないという状態のまま、社会人となりました。

 第2章 社会人編

 県内の一部上場企業{(株)新潟鐵工所→ニイガタ機電(株)出向}に入社し、エンジニアとして社会人の第一歩を踏み出した私。想像以上に刺激的な日々が待っていました。

 出張先での熱い夜、海外での貴重な経験、週末の草野球、地域のお祭り——。
 
 そんな賑やかな日々の中で、私の人生を大きく変えた、まさかの出会いがありました。

 それは社会人となって初めての同窓会。

 数年ぶりに再会した親友は、相変わらずの無邪気な笑顔で私を迎えてくれました。互いに独身という共通点から、「何か新しいことを始めよう!」と、酔った勢いで意気投合しました。

 その時、頭に閃いたのは、当時流行り始めていたスノーボード!

 小学生以来となるスキー場での冒険が、私を待っていました。かつては邪魔に感じていた雪も、今や銀世界に変貌していました。

 雪の上を滑走する爽快感、風を切る疾走感、そして何より日常を忘れさせてくれる非日常——。スノーボードは、私にとって最高のストレス解消法であり、人生の新たな挑戦でした。

 私はスノーボードの魅力にどっぷりとハマりました。

 シーズン券を購入し、週末ごとにスキー場へ。今まで趣味らしい趣味のなかった私にとって、これは人生初の本格的な情熱でした。

 ある程度上達し、安定して滑れるようになったシーズンオフ。奥只見スキー場から帰宅後、ふと不思議な感覚に襲われました。

 丸一日、雪上で何度も転んだにもかかわらず、体に痛みを感じないのです。

 半信半疑ながら、自宅から3kmほど離れた秋葉山までジョギングしてみると、長年悩まされていた走ったときの脇腹の痛みは跡形もなく消えていたのです。

「なんだ!全力で動けるじゃん!」

 その瞬間、私の中で何かが解き放たれました。

 スケートボードを始め、さまざまな運動にチャレンジしまくりました。かつての運動嫌いな自分とは、かけ離れた存在になっていたのです。

 このときは医学知識もないので、なぜ良くなったのかわかっていません。後ほど、この原因が明らかになります。

 その影響で、プライベートだけでなく、仕事にも変化が訪れました。体の調子が良くなるにつれ、心に余裕ができて自信を持てるようになってきました。

 当時の私の仕事は、金属を削る機械のエンジニアをしていました。機械を組み立てたあと、調整して出荷する作業があるのですが、その中で機械にデータを入力するのが大変な作業でした。

 とにかく時間がかかるんですよ。

 今では考えられないですが、いちいち資料を見ながら手入力をしてたんですね。コピー&ペーストすれば一瞬で終わる作業を30分以上かけてやっているわけです。

 ずいぶん前にも先輩に、早く仕事が終わる改善法を提案したことがありました。

「ずっと、このやり方でやっているから!」

 と受け入れられず、一蹴されて終わりでした。そのときは言っても仕方がないと諦めて、自分だけこの改善法を使うことにしました。

 しばらくすると、職場で私の仕事の効率の良さが少し噂になってきました。

 ある日、先輩方がどうやってるのか聞きにやってきました。

 そこで、この改善法がいかに素晴らしいか、プレゼンテーションしました。ハラに力を入れ、芯の通った姿勢で、自信に満ち溢れた舞台でした。

 そのおかげで、この方法が採用されることになりました。会社では、毎年、上司が部下を面接して評価する制度でした。その年の評価は、Aになることができました。

 あれこれ社会人として過ごしていましたが、だんだん社内に不穏な空気が漂うようになりました。

 いゃ〜な感じですよ。業績が悪化し、どうにもならない感じ……。

 仕事がなくて、どうしたらいいかわからない。上司に仕事くれと言うと、仕事は自分で見つけるもんだって言葉が帰ってきます。

 これは、会社が潰れるのも時間の問題だなと思いました。

 その頃、会社から希望退職を募りますと発表されたので、ここに居ても将来に不安が増すばかりなので退職することにしました。

 それに誰しも1回は自分の人生について、このままでいいのだろうかと自問自答する時期があると思うのですが、私の場合はちょうど、この頃でした。

 ちなみに、退職した半年後に、会社は経営破綻しました。

 このときは、ちゃんと場の空気を読み、タイミングを見て行動することの大切さを知りました。行動すべきときに行動しなければ取り返しのつかないことがあるんですね。

 第3章 武術修行編

 退職後、私はさまざまな求人を眺めては「これだ」という仕事を見つけられず、手持ち無沙汰な日々を過ごしていました。そんなある日、ふと思い立ちました。

 「そうだ、小さい頃からの憧れだったカンフーや武術に挑戦してみよう」

 大きな書店まで足を運び、武術関係の本や雑誌を見ていくことにしました。そこで手に取った一冊の本が、私の人生を大きく変えることになるとは、その時は想像もしていませんでした。
 
『合気道の科学』—そのタイトルが私の目を引きました。
 
 不世出の天才武術家の元弟子による著書は、私が思い込んでいた「気合と根性の世界」という武術のイメージを一変させました。そこには論理的で科学的な武の世界が広がっていたのです。
 
 日を追うごとに、その魅力にどんどん引き込まれていく自分がいました。
「よし、著者の吉丸先生から直接学ぼう!」
 調べると浦和で定期的にセミナーを開催していると知り、迷わず申し込みました。

 参加当日、私は期待と緊張で胸が高鳴っていました。会場で「先生はどこにいらっしゃるのだろう」と周囲を見回していると……。
 
「先生!」
 と隣の人が声をかけたのは、なんと目の前で受付をしていた人物でした。
「えっ、この方が……?」
 予想とのギャップに言葉を失ってしまいました。
 
 初めて会った先生は、武道家というより知的な研究者のような印象でした。その日、念願の武術を体験し、時間はあっという間に過ぎていきました。
 
 それからは月に2回、浦和まで稽古へ通うようになりました。昼から夕方までの稽古の後は、参加者で食事を共にする—特に先生と直弟子たちとの食事の時間は、貴重な学びと楽しさに満ちていました。
 
 順調に稽古を積み重ね、順調に上級者への道を……というわけにはいきませんでした。思わぬ敵が私を襲ったのです。

 激しい身体の痛み!

 稽古の後、腰が痛くなり、足にも痛みが走り、歩くのもしんどくなる。さらに肩はパンパンに張り、腕はだるくて仕方ない。

 当時はお金に余裕がなく、宿泊費と交通費を浮かせるために車で通っていました。帰りは必ず越後川口サービスエリアで休憩をとるのですが、車から降りるのも一苦労で、足をガクガクさせながらトイレに向かう始末でした。
 
 ある稽古日の休憩時間中のこと。
「今日の帰りもカラダが痛くなるなあ」
 とつぶやいた私の隣にいた直弟子が、あっけらかんとした口調でこう言いました。

「あれ、身体、痛かったんですか?もっと早く言ってくれれば良いのに〜」
 そう言って近くにいた先生を連れてきてくれたのです。

「新保さん、ここには色んなところからレベルの違う人が集まるものだから、基本をする時間がないんだよね」
 
 先生が申し訳なさそうに言ってくださいました。さらに続けて、私の耳を疑うような言葉が……。

「身体が痛い原因は、姿勢ですね」

「えっ、本当ですか?」
 驚愕と困惑で頭が真っ白になりました。
 
「以前からお話ししているように、武術や芸事の場合、体の動かし方が違うんですよ。普段やっている動きは人間動作。体術で使う動きは体を張ったように使う」
 
 初めて習った時にも同じことを言われたことを思い出しました。
 
「それで、その体を張った動きをする時に大事なのが姿勢なんですよ。これができていないと、力が分散してしまう」
 
 どうやら私は、力を相手に伝えようとしても、うまく伝わらない状態になっていました。しかもその力が自分に跳ね返ってストレスとなり、体の軸やバランスを狂わせていたのです。
 
 その結果、動きがおかしくなり関節に負担がかかり、痛みが発生していたようでした。
 
 あと、背骨が竹のように真っ直ぐになりすぎているのも良くないと一緒に参加していた整体師の方にも指摘されました。
 
 それを聞いて、愕然としました。あれほど悩んだ痛みの原因が姿勢だったなんて……。
 
「特に腰を据えてハラをしっかりさせて、体幹をしなやかに強くする必要があります」
 
 そう言って、先生は正しい姿勢を教えてくださいました。
 
「私も先生みたいな動きができないものか、徹底的にマネをしたんですよ。あまり誉めてくれなかった先生が唯一認めてくれたのが、この姿勢と体捌きだったんですよ」
 
 と懐かしそうに、先生は弟子時代の話をしてくださいました。
 
 その日から、私は姿勢の独り稽古を毎日続けました。ラジオ体操をするつもりで習慣的にやり、地元の合気道の稽古にも参加していました。

 そして、約90日が経った頃、奇跡が起きました。

 稽古の後の体の痛みが消えたのです!あの忌々しい痛みから、ついに解放されたのです!
 
「やった!」

 今思えば、以前スノーボードで痛みが出なくなったのも、バランスをとって体幹を使うスポーツだったからだと気づきました。

 体の奥のインナーマッスルが鍛えられ、体幹のバランスが良くなったのでしょう。高校野球で痛かった肩や肘もこれが原因だと思います。
 
 嬉しさとともに人間の体の不思議さに興味が湧いてきたのもこの頃でした。

 その後しばらく稽古を続け、三段の免状を取得したときに、思い切って地元で護身技研究会を立ち上げることにしました。募集をかけると5人が入会してくれて、小規模ながらも活動が始まったのです。
 
 人って、本当に変われるものですね。
 
 私は小さい頃から人前で話すのが苦手で、小学校4年の時はクラスの発表会でうまく話せず、泣き出してしまうほどでした。

 自分をアピールするのが苦手だったのに、会を立ち上げ指導する立場になるなんて、想像もしていませんでした。

 突然ですが、皆さん辞めるに辞められない状況へ陥ったことはないでしょうか?

 私も武術の活動をここまでするつもりは毛頭なかったのですが、ドーン!(←効果音)

 奥伝六段までになってしまいました。私は一体何者になるんだ?

 第4章 治療家の道へ歩み出す!

 さて、時間を少し巻き戻し、辞職後の仕事探しの話をしましょう。
 
 痛みを克服した経験から、私は「痛みで苦しんでいる人を救いたい」という思いが強くなっていました。医療に携わる様々な仕事を調べていくうちに、ついに運命的な出会いがありました。
 
「これだ!」心の中で叫びました。

 それが「鍼灸師」でした。

 第一印象からして、カッコいい!あんな細い針で治療するなんて、不思議でロマンに溢れています。「気」の理論で治療するなんて、まさに求めていたものでした。
 
 善は急げとばかりに、すぐさま鍼灸の専門学校の願書を取り寄せ、申し込みました。当時、鍼灸専門学校は村上市にしかなく、新津から車で約60km、1時間20分もかかりました。
 
 これまで学問に熱中したことはなかったのですが、鍼灸の世界は自分にぴったりだったのでしょう。勉強が楽しくて仕方なく、毎日の通学もワクワクでした。
 
 そして卒業、国家試験にも無事合格。すぐに開業するのは難しいと判断し、東京の鍼灸接骨院で修行することにしました。
 
 修行中は先輩方から貴重な教えをたくさん受けました。勤め先はとても繁盛していて、非常に忙しい施術院でした。特に「緩めば治る」というシンプルな治療哲学によって、効率的に運営されていました。
 
 初めて患者さんから「先生、痛かった肩が治ったよ!」と言われた時は、飛び上がるほど嬉しかったです。周りのスタッフも「おめでとう」と言ってくれたことは、今でも鮮明に覚えています。
 
 それから、体を緩めることにこだわりを持つようになりました。様々な本を読み、セミナーに参加し、「緩め」の極意を探し求めました。
 
 当時、柔道整復師の方と一緒に仕事をしていて、接骨院業界の話も面白く感じていました。「治療の幅を広げるなら」と、柔道整復師の免許も取得することを決意しました。
 
 働きながら夜間学校に通え、かつ実績や経験になりそうな職場を必死に探しました。東京都周辺では希望する条件の職場が見つからず、最終的に福島へ移ることに。
 
 幸運にも、夜間学校に通いながら、整形外科のリハビリ室で鍼灸師として働き、整形外科の患者さんに関わることができる病院に勤務することができました。

 第5章 結婚編

 昼は病院に勤務して、夜は専門学校、そして週末は武術の活動と忙しい毎日を送っていましたが、だんだんしんどくなってきました。

 自分でやりたくてやっているのに、まさに自業自得とはこのことです。病院での仕事は、患者様の数も多いので帰宅近くになるとヘトヘトになることがありました。

 このことを妻に相談してみることにしました。

 「エッ!妻っ?」と思った方、そうなんです。

 実はこの頃、私、結婚しました。私の妻になっていただいたのは、鍼灸学校時代の同級生だった方です。綾さんです。専門学校時代から、お付き合いを始め、修行時代から同棲をしていました。

 働きながら夜学へ行くような変わった男に、一緒にいてくれた妻には頭が上がりません。

 そんな私をサポートしてくれる妻に、状況を説明して負担がなくなる方法はないかと相談してみました。

 私「なんか疲れが取れないっていうか、仕事が結構大変なんだよな。体が硬い人のリハビリとか、筋肉ほぐしたりとか、体力奪われるんだよね」

 妻「そうなんだ〜。なんかよく分からないけど、前に言ってた武術で相手の力を抜くとか、そんな感じのやつ?使えば仕事が楽になるんじゃないの?」

 私「……。お主、天才か?」

 妻「うん、知ってる」

 私は早速、「力抜き」を応用した体を緩める方法を仕事に取り入れてみました。グイグイと力を入れるものではなく、軽く撫でる程度でも効果は見られました。

 ただ、急にやり方を変えると患者様が戸惑うので、わからないように取り入れていきました。試行錯誤を繰り返し、身体中の関節へ対応できるようにしていきました。

 その結果、疲れることなく仕事ができ、患者様の負担をかけることなく、動きを良くしていくことができるようになりました。

 この技術が、今でも当院を支えている基本技術になっています。

 そして、しばらく同棲生活を経て結婚生活をしていましたが、なかなか子宝を授かりませんでした。

 妻の子供が早くほしいという強い希望があって、不妊治療をすることにしました。

 当時、私は不妊治療というものに関心がなく、女性が主体になってするものだと思っていました。自分の精子の状態を調べるまでは……。

 それに精子を病院に持っていくのも恥ずかしいとか、男ならわかりますよね。

 私の場合は、精子の状態があまり良くなかったので、サプリを飲んだり、妻に内緒で男性不妊症のツボに鍼を打っていました。

 不妊治療は、女性だけでなく男性の治療も重要なんだな〜と身をもって体験しました。
 
 全国には、まだ男性不妊症の専門施術とか少ないので、その分野で少しでも力になれたらいいなと思っています。

 不妊治療の方は、妻の努力もあって無事に懐妊することができました。不妊治療を担当していただいた先生、ありがとうございました!

 子供ができたこの頃には、柔道整復師の国家資格免許を取得し、病院を退職して新潟に戻っていました。

 念願だった!開業準備をするためです!

 第6章 開業編

 開業前は色々とやることが山積みで、大変でした。周りのサポートもあり、新潟市秋葉区で開業することになりました。

 ただ開業するにあたって、コンセプトだけはハッキリさせておこうと思いました。

「やる気、元気、希望の光がさす施術で笑顔と健康をいつまでも!」というスローガンを掲げることにしました。これには、これからの長寿社会に向けて健康寿命を延ばして生き生きとした生活をサポートしていく思いが込められています。

 ずっと、この頃は、どのような施術を提供したら喜ばれるかを考えていました。言うまでもなく、ケガなどの保険施術や、鍼灸施術は提供が決まっていました。できれば、ここでしか提供できないウリみたいなものは無いかと頭を悩ませていました。

 せっかく来ていただいたからには、できるだけ良いものを提供したい!自分にできることってなんだろうと自問自答を繰り返すものの、良いアイデアは浮かんできませんでした。

 フーッとため息をつきながら、お腹が少し目立ってきたマタニティ雑誌を読んでいた妻に話しかけました。

 私「あのさ、自費治療でも良いから、ここならではの施術みたいなメニューを作りたいんだけど、何か良いのないかな」
 
 妻「整体とか、カイロのセミナーとか行ってたじゃない。それで良いでしょ」

 私「他とは違うような、差別化みたいな感じで何かない?」

 妻「自分が一番自信のあるものにすれば良いじゃない、運動で自分の体を治したんでしょ」

 私「……。前から思ってたんだが……、お前、さては天才だな?」

 妻「うん、知ってる」

 私は今までツラかった痛みの経験やそれを克服してきた武術のエッセンスを集約した「歪み矯正整体」と言う自費メニューを作り上げました。

 そして、ついに平成21年7月21日にシンボ接骨院鍼灸院を開院することなりました。

 さいごに 新保からのメッセージ

 少し大袈裟ですが、私の半生を振り返ってみると痛みとの戦いと、それをどうやって克服するのかというテーマを追い求める旅だったと思います。
 
 私自身、”こうでありたい”と思える人生観があります。それは、いつでもやりたいことができる健康体でいること。

 それには、不健康な自分を責めることなく、誰かを責めるでもなく、ただ自分の体に合った方法で常に体の状態を最良にしておくこと。

 それは、どこへでもいける、どこまでも飛べる、そんな生き生きとした人生を送れることに繋がると信じています。

 健康体は何も体の不調だけでありません。心にも大きな影響を与えます。

 ハツラツとした体には自信がみなぎり、やる気、元気に満ちあふれ、「素敵」と周りから思われるでしょう。

 想像してみてください……。

 仕事やプライベートで元気よく、生き生きと動いている笑顔のあなたの姿を……。

 私たちは、そのサポートのために、治療院を作りました。
 

 ここまで、お読みいただき、ありがとうございました。

 もし健康上お悩みがあったり、お話ししてみたいことがあったら、お気軽にご相談ください。

 余計な遠慮はいりません。

 あなたのお悩みを解決すべく、全力でサポートさせていただきます。

 あなたとお話しできることを心よりお待ちしております。

 待ってますよ!♪( ´θ`)ノ

 シンボ接骨院鍼灸院 代表 新保直人